「誰かの役に立つこと」が私を救った。暗黒期を抜け出したボランティアとの出会い

不登校支援の考え方

最後は通信制高校と大検(現・高卒認定)の話です。「全然回復期ではなく、この時も相当しんどかった。高校卒業後も5年くらいはしんどい時期」です。この辺りも通信制高校への転入とか、高校卒業とか、表向きはハッピーな話なのに暗い話で申し訳ないところです。

ひきこもりにも移行しているし、不登校でもかなりしんどい部類ですね、私の場合は。

学校の課題

今回も先に「学校の課題」から行きましょうか。

結局、2年間工業高校には籍を置いていたのですが、2年目は一度だけ登校してやっぱりダメでした。これも在籍していたら学校へ行かなくても授業料等はかかっていると思うので、親には迷惑をかけたと思います。

工業高校に関しては学校でのいじめが原因なのですが、今でも(いじめによる不登校を理由とした)授業料免除のような直接的な制度はないようです。原因が原因なので、留年する際に経済的支援の仕組みを利用できるよう求めることはできそうですが、今の時代なら学校も通信制高校などを紹介してきそうです。

その通信制高校ですが、こちらも今の時代では考えられないことがありました。なんと、面接のときに「3年間真面目に通って卒業できるのか?」と聞かれたんですね。

記憶の中では面接というよりは説明会みたいな雰囲気で、学校の見学や説明を受けた後、そのまま面接という流れで、いきなりそんなことを言われても「通えます」「卒業できます」と言える子は少ないでしょう。それも、かなり高圧的な言い方をされました。

当時の通信制高校は、どちらかといえば中退した不良が通う場所……みたいな扱いだったのかなと思いますが、それにしたって今の時代ならハラスメントや配慮を欠いた対応として問題になりそうですね。結局その通信制高校は落ちて、別の通信制高校に通うことになりました。

ただ、今の時代のようにコースが複数あることもなく、スクーリングも全4回中3回出席、前期の出席を後期の出席には当てられない……みたいな仕組みでした。全日制高校なら、全40回中30回の出席みたいな仕組みのはずなので、回数は少ないけれど1回しか休めないという過酷な条件でした。授業自体は「出席さえしていれば良い」というような雰囲気でしたけれど。

また、大検(現・高卒認定)ですが、現役で大学に入学するために受けました。高校を卒業するには単位だけでなく3年間の在籍が必要になるのですが、工業高校では半年分の在籍のみの扱いになっていたので、通信制高校に真面目に通っても卒業までに2年半はかかる計算になります。そこで、大検を取得して大学受験をしました。

もっとも、夏に大検を取得するまではともかく、大学の受験勉強は当時の通信制高校では対応してもらえず、あっさりと不合格になりました。大検は「大学入学資格検定」なので、大学などの高等教育機関に合格・進学しなければ学歴上の資格として活かしにくかったため、そのまま通信制高校を卒業するまで頑張りました。大検の合格科目が通信制高校での授業免除になったりして、一定の意味はありましたが。結局、中学の同級生より1年半遅れで高校を卒業してフリーターになるという形でした。

支援者、専門家の視点で見ても、当時はまだまだ不登校の受け皿が少なかったのだと思います。そもそも、不登校ではなく「登校拒否」と呼ばれていた時代なので、「怠学」に近い扱いだったのでしょう。

私はいじめが原因による不登校という深刻なケースなのですが、通信制高校受験時にその辺りの申し送りが高校間で行われることもなかったように思います。今は本人や保護者が望めば共有されるようですが、当時はそもそも「いじめによる不登校」という認識すらされていなかったようにも思います。

そういえば、受け皿という意味では適応指導教室(現・教育支援センター)も酷いものでした。中3に遡るのですが、利用しようと見学に行くと在籍中学の元生徒指導教員が出てきて「◯◯中の生徒がこんなところに来るな!」と怒鳴られました。今の私なら「あなたの職場ですよね?」くらいは言い返しますが、当時はもう恐怖しかなかったですね。

大人になってから適応指導教室でボランティアできないかを聞きに行った際にも「ここは不良を更生させる場所」と言われたので、認識が今とは全然違ったのでしょう。少なくとも岸和田市は、現在は居場所的な要素も取り入れた不登校に理解のある体制に変わっているようですが。

本人の課題

しんどい時期と事前に書いたように、精神疾患も全然良くなっていませんでした。

それでも通信制高校に入学したり、大学受験しようと思って大検を取得したり、受験に失敗しても通信制高校卒業まで頑張ったりと、一定の回復はしていたのかなと後になってみると感じます。

ざっくりとしたくくりだと15歳から25歳までの10年くらいは暗黒期で、非常に状態が悪かったと記憶しているのですが、その中でも浮き沈みはあったのかなと思います。工業高校に在籍していた2年間が最底辺なら、通信制高校に在籍していた2年半はかなりマシだったのでしょう。

実は不登校支援もこの頃から行っていたはずです。ハッキリいつという記憶がないのですが、2001年の『千と千尋の神隠し』をこども達と見に行った記憶があります。1981年生なので当時は20歳……ただ、ボランティア1年目ではなかったこと、19〜20歳のときはアルバイトをしていたことを考えると、通信制高校在学中から行っていたんだと思います。振り返ってみると、意外としんどいだけでもなかったようですね。

支援者、専門家の視点で見ても、そういう見方になるでしょう。医療的ケアに関しては引き続き行われていましたし、行う必要があったと思いますが、「不登校支援」という面では高卒資格を取得した時点で支援が打ち切られてしまうケースも多いのが現状です。

ただ、前述したように「25歳くらいまでは暗黒期」なので、支援終了後の社会的な移行期を支えるような、切れ目のないアフターケアがやはり必要なのだろうと思います。

家庭の課題

基本的には今までと変わらなかったのですが、多少は変わっていたのかもしれません。一応、通信制高校への転入学は認めてくれたわけですし、通信制高校の情報もおそらく学校から入手してくれたのでしょう。

私のほうにも情報が渡されていた可能性はありますが、工業高校の2年目は1日しか行ってなかったので、電話で話すということもほぼなかった気がします。別室で高校の先生から話を聞いたり……はしたのかもしれませんが、あまり記憶に残っていないですね。

また、ボランティア活動に反対しなかったということも大きな変化のような気がします。お医者さんからの助言もあったのかなと思うのですが、アルバイトではなくボランティア活動を選んだことを認めたのは、今の私を形作るうえでは非常に大きなことでした。まあ、「お金にならないこと」というような嫌味は言われていましたけれど。

私の家庭内暴力も続いていました。不登校支援の居場所は、保護者数人が集まって自分のこどもの居場所を作る……という形から始まったんですよね。だから、ほぼ同年代の親でも全然自分の親とは違い、自分の親がいかに不登校に理解がなかったかということが浮き彫りになる部分もありました。

精神的にもまだ不安定だったし、少し荒れると逆ギレしてくるような親だったので、負の連鎖で家庭内暴力が……という感じでした。父親の方は、会社で理解のある人に出会ったらしく、かなり考え方が変わっていましたけれど。

支援者、専門家の視点だと、どう見立てるのが良いのか難しいところです。中学3年生や工業高校の頃に比べれば、随分安定しているので一人暮らしすべき……と一概には言えないようにはなっていますね。まあ、それでも家庭内暴力が続いているのであれば、家の近くにアパートを借りて一人暮らしをする方が親子ともに平穏に過ごせるのでは? ということにはなりそうですが。

当時の心境

すでに結構書いてしまいましたが、大きなくくりだとやはり暗黒期ではありました。ただ、暗黒期の中では随分とマシな時期ではあったのでしょう。

しんどかった時期をざっくり10年と考えて、通信制高校在学時とアルバイトができていた時期の計5年くらいが比較的マシな時期で、完全な引きこもりになっていた時期が特に悪い時期だったのだと思います。

引きこもりでも本人が楽しく過ごせているなら必ずしも問題だとは思わないのですが、私の場合は全く楽しくなかったので非常につらかったですね。

もっとも、通信制高校の時期に限定するなら、大検に挑戦して合格したり、大学受験に失敗しつつも通信制高校はなんとか卒業したり、不登校支援のボランティア活動を始めたり、高校卒業後はアルバイトを始めたりと、現状を変えようと必死に努力していたんだなと思います。

当時の心境としても「このままではダメだ」「変わりたい」という気持ちがあったのだろうと思います。きっかけになる大きな出来事があったわけではないので、ネガティブな理由による頑張りだったような気もします。とはいえ、必死にもがいていたんだろうなとも感じます。

また、ボランティアをする側とはいえ、不登校支援の居場所は自分にとっても居場所になっていたんじゃないかなとも思います。どちらかと言えば利他的な性格なので、誰かの役に立つことが自分の自己肯定感を高め、エネルギーを回復させていたのだと、今になって感じています。

当時の自分への支援

客観的に見ると、当時の私はかなり頑張っていたと思います。ただ、やはり無理をしていたとも思うので、ブレーキを掛けない程度には気遣うサポートが必要だっただろうとも思いますね。

それこそ家庭内暴力は、本人が無理をして頑張ってもうまくいかないとき、親が無理解、さらに追い打ちをかけることで感情が爆発してしまうという状況だったと記憶しています。そして、感情を爆発させたことでエネルギーを消費してしまって余計に動けなくなるという悪循環でした。

そう考えると、この時期なら週1回程度の定期的な相談援助で心身を安定させることはできていたように思います。病院のカウンセリングも続けていたと思うのですが、多くても2週間に1回くらいだったので、ちょっと頻度が十分ではなかったのかもしれません。

また、今なら通信制高校の種類も膨大にあるので、もう少し自分にあった高校も選べたのだろうと思います。独学で大検を取得できていることからも学習面は大丈夫だったようですが、今なら高卒認定の過去問などを活用してサポートすることも可能ですね。

前に進もうとしている時期なので、サポートできることも工業高校時代に比べると増えています。まさに伴走者として、本人の望むことに応じた個別最適なサポートができる時期ですね。

書き出すときりがないので書いていないのですが、ソーシャルワーカーということもあって相談室で1時間ただ話を聴くだけでなく、例えば高卒認定試験会場の下見に同行したり、ボランティアセンターに同行して一緒にボランティア先を探すというようなサポートも、ティーンズ・プレイスとしては可能です。

公的機関ではそこまで踏み込めない柔軟なサポートをすることが民間の価値だと思っているので、この時期の自分になら柔軟なサポートができたのだろうと思います。


最後に

以上で私の不登校経験談を終わります。ちょっと通信制高校卒業後のことにも触れましたが、しんどい時期が続くという話で終わると、読んでおられる親御さんは不安になってしまうかもしれませんね。

連載予告の記事に書いたように、25歳から新たな不登校支援ボランティア(大阪市内)を始め、そこからは回復していきます。

今日の記事に書いた岸和田市にできた不登校支援の居場所は、保護者が始めたということもあって数年で役割を終えてしまったのですが、実は25年以上前にフリースクールの前身のようなものが存在していたこと、そこに関われていたことは、岸和田で不登校支援者をしている自分としては本当にありがたいことであり、今の私の大きな財産となっています。