勝手に決められた進路と大人への不信。私が完全不登校になった中3

不登校支援の考え方

次は、中学3年の話です。「完全不登校。ただ、受験前は別室登校」の時期です。

小中学校の振り返りは「学校の課題」より「家庭の課題」が多くて、保護者の方にはつらい内容になっているかもしれませんが、「学校の課題」がメインになるのは高校進学後です。それはそれで、親御さんには別方向のしんどさがある内容かもしれませんが。

家庭の課題

というわけで、中3もやっぱり「家庭の課題」がメインです。家庭というか、家庭教師が完全不登校の元凶なのですが、親戚だったということを考えるとやっぱり「家庭の課題」かなぁという感じです。

中3ということで親戚が家庭教師をしてくれた、そこまでは良いのですが、1時間の約束が1時間半になり、さらに2時間と、親戚の気分でどんどん延長されていきました。

そして何より許せなかったのが、進路を勝手に決められたことです。中堅くらいの高校を志望していたのですが、「このまま頑張れば上位の高校にも行ける」と勝手に志望校を変更され、勉強を強制されました。

繰り返し同じ問題を解かされたので、実際にその時のテストの点は上がったと思うのですが、だからといって勝手に志望校を決められ、勉強時間を延ばされることは許せませんでした。

そもそも、これまでも大人に自分の人生をめちゃくちゃにされているという思いが強かったので、これが決定的になり、「勝手に人の人生を決めるな!」ということで学校に行かなくなりました。

支援者の視点から見ても、完全アウトな行為です。そもそも信頼関係がゼロですし、同じ上位の高校に進路を変えさせるにしても、中間テストや期末テストとどんどん点数が上がっていき、その流れで本人が納得した上での挑戦ならよかったのですが、すべて親戚のエゴだけの判断でしたから。

「自分の息子を上位の高校に行かせたかったけれど、中堅クラスの高校に行ってしまったから、そのリベンジをしたかった」らしく、人の人生で自分の子育てのやり直しをするのは、人権侵害(子どもの自己決定権の侵害)ですらありますね。

専門家の視点では、福祉・支援の基本である「利用者の自己決定の尊重」という原理原則に完全に反しています。

しかも、善意で時間を【延ばした】わけではなく、自分のエゴはもちろん、しっかりと謝金も時間分増やしていたらしいので本当に悪質ですね。

一般の塾や家庭教師でも、実績のために「上位の高校に入学させようとする」ということはあるとは思うのですが、実は私の親も別に上位の高校に入学させたいと思っていなかったらしく、本人の意向も保護者の意向も無視した、むちゃくちゃな行為でした。

本人の課題

なかなか理不尽な行為だとは思いますが、それで学校に行かなくなったのは、ある意味で自分自身を追い詰める一種の自傷行為のような側面もあったと思います。修学旅行は行けたし、体育祭も見学はしていたので、学校自体が嫌いなわけではなかったんですよね。

ただ、きっかけは親戚の家庭教師だけど、親を始めとした大人への不信感がここに来て爆発したのだろうとも思います。

この頃には「自分は病気だ!」ということを強く主張し、病院で色々検査を受けたりしていました。結局、上記の家庭教師とは全然別の親戚の紹介で、精神科病院に通院するようになりました。

今にして思うと、他にも大学病院で検査か問診のようなものを受けたのですが、医大生がやっていたのか、症状の確認の仕方が非常に誘導的でした。「こう言ったら病気と判定されるんだろうな」ということが中学生ながら分かってきて、適当にあしらって終わるということがありました。今みたいにネットがなかった時代ですから、単純にその医師(医療者)の臨床スキルが低かったのでしょう。

他の病院でも「入院が必要なレベルだ」と診断されたのですが、あんまり信用できなかったので入院はしませんでした。後から分かったのですが、どうもその病院は、入院させて服薬を強要し、かえって病状を悪化させるような、不適切な治療を行うタイプの病院だったようです。

この辺りは、のちに精神保健福祉士の勉強をする中で「かつての日本の精神医療には実際にこうした暗部があった」と学んだので、少なくとも30年以上前の日本の精神科病院は、かなり課題が多かったのだと思います。

病院では睡眠薬や安定剤が処方されていたのですが、主治医がストレートに「原因は家庭」「薬は対症療法」と言っていたこともあり、投薬だけで簡単に回復することはありませんでした。

ただ、並行して受けていたカウンセリングには確実な効果がありました。それこそ今まで誰も真剣に聴いてくれなかった自身の生い立ちなどを話せる人ができたことは、私の人生の最大のターニングポイントになったと思います。

支援者の視点としては、積もり積もった不信が爆発したわけなので、もっと早い段階で不信を減らせるような支援があれば……と思います。「カウンセリングを受けられるようになったこと」は非常に大きな出来事なのですが、「原因が本人ではないから家庭環境が変わらないと根本解決しない」というのは大きなジレンマでしたね。

専門家の視点でも同じですが、今回紹介しただけでも3つの病院の中で1つしかまともではなかったわけで、日本の精神科病院の「相性の合う主治医に出会える確率」の低さは問題です。

今でもそうなのかはわからないのですが、「本人が納得できる精神科病院や主治医に出会えるまでに数年かかるのは当たり前」と5年ほど前の大学の授業でも習ったので、日本の精神医療のシステムにはやっぱり課題が多いですね。

また、その病院の主治医自身が正直に「不登校は病気じゃないから、医学的には治療できない」と言っていました。その先生はめちゃくちゃ患者の話を聴いてくれるタイプの先生でしたが、世の中には薬を処方して終わりの先生も多く、特にこどもだとよくわからずに薬を飲まされるということにもなりかねず、リスクも高いと思っています。

学校の課題

体育祭を見学と書いて思い出したのですが、心臓病の検査で引っかかってから有酸素運動が全般的にダメになりました。不整脈のせいか、あるいは精神的に自律神経が乱れていたせいなのかはわかりませんが、運動中に意識が遠のいたり、全校集会などで貧血(脳貧血)になるということが頻繁にありました。

体育教師は理解がなかったけれど、それでも検査で引っかかっていたり、不登校傾向のあるこどもだということで、無理やり走らされるということはほとんどなかったように思います。

また、最初に書いたように受験前に別室登校をしていたのですが、30年以上前という時代背景を考えると、学校側からめちゃくちゃ配慮されていたように思います。

あえて課題というなら、別室が最初は図書室だったのが、途中で生徒指導室に変わったことでしょうか。二部屋が並んでいて、私が別室で勉強している隣で、先生が他の生徒を怒鳴り散らしている声が筒抜けで聞こえてくるという、今の時代で考えると完全アウトな環境ではありました。

ただ、「基本的にこども一人で放っておくのはアウトなので、職員室から近くて先生方が顔を出しやすい場所に移動させた」というのは、意図としてはわからなくもないです。

先生が授業プリントの丸付け作業をしながら同じ部屋にいるという感じではありましたが、質問すれば丁寧に教えてくれる先生もいたし、職員室が近かったので、逆に職員室で実技系のテストを受けさせてもらえたりもしました。

最終的に、私は卒業式にも出席しているんですよね。練習の見学に行ったら同級生が声をかけてくれ、そのまま練習に加わるという感じでした。

中1のときにいじめがあった話もしましたが、不登校の状態なのに修学旅行に行くというのも周りは自然に受け入れてくれたし、卒業式も「一緒に出よう」と同級生が声をかけてくれ、本当に友人関係には恵まれていたと思います。

だから、あえて当時の「学校の課題」をあげるなら、結局「家庭の課題(児童虐待など)」を放置して介入できなかった(あるいは介入する制度がなかった)という部分になっちゃいますね。そういう時代だったと言ってしまえばそれまでですが。

また、これも時代の問題や、自身の内申点の問題なのですが、先生から勧められた「工業科」は結果的に合いませんでした。

「パソコンの勉強がしたい」ということで工業科が進路になったのですが、入学してみると「パソコン(ハードウェア)を作る」という理系的な方面で、私のイメージしていた情報処理(ソフトウェア)的な方面ではありませんでした。

ただ、先にも述べたように、当時の商業科に進むにはより高い内申点が必要だったことや、当時の定時制は中学卒業してすぐに入学するような場所ではなかった(大人の学び直しが主流だった)ことから、現実的な消去法で工業科になったのだと思います。この辺りは、支援者としても専門家としても、進路指導の一筋縄ではいかない難しさを感じるところです。

別室登校や学校行事に関しては、今の時代でも珍しいくらい手厚く配慮されていたと思いますし、進路に関しても、本人の希望と現実的な選択肢の妥協点が工業科だったということなのかなと思います。

一応、情報処理の授業はあったので、普通科に入学するよりは希望に近かったと思うし、今のように「岸和田市より北の高校」に進学することも学区制限などで簡単にはできない時代だったので、仕方なかったのだろうと思います。

通信制高校の選択肢は当時は出なかったと思いますが、それこそ先生自身が通信制を認知していなかった可能性もあるし、公立の桃谷高校は遠すぎて選択肢に入らなかったのだろうと思います。

当時の心境

もう本当に家族と、家庭教師をしていた親戚のことが嫌で嫌でたまりませんでした。それは大人に対する強い憎しみにも繋がっていくわけなのですが、意外と学校の教員に対する憎しみはなかった辺り、「理不尽に自分を傷つけてきた相手(家族や親戚)にだけ怒りを向ける(やられたらやり返す)」という、自分なりの一貫した心理だったのだろうなと思います。

また、医師からも「100%親が悪い」「こんな過酷な家庭環境に生まれて、こうして生きているだけで偉いんだよ」と言われていました。

専門家(ソーシャルワーカー)の視点で今、客観的に振り返ってみても、早期に児童相談所に通告し、一時保護などによって家庭から物理的に引き離すべき事案だったと思いますし、時代背景的にそれが難しかっただけで、現在なら確実に一時保護が実施されているレベルでしょう。

当時の心境を振り返るはずが、ついつい今の専門家としての客観的な分析になってしまいましたね。

でも、正直に当時の心境をそのまま語ると、読んでいる親御さんを深く傷つけてしまうほどの、大人たち(親や親戚)への強烈な恨みつらみしかなかったのが正直なところです。

学校に対しては恨みつらみはありません。むしろ、別室登校などの配慮も含めて感謝しているくらいです。もちろん、私の家庭の深刻な虐待問題を放置した(あるいは当時は踏み込めなかった)ことに対するもどかしさや恨みつらみは、少しありますけれど。

当時の自分への支援

やはり、迷うことなく児童相談所への早期通告(相談)に尽きるでしょう。

当時と現代の常識のズレがあるとはいえ、少なくとも前回の記事に書いた「前歯を折られた」行為は、当時の基準であっても十分に深刻な「身体的虐待」ですし、そういえば手のひらに怪我を負って流血しながら、一晩中裸足で街をさまよった経験もあります。

最終的に上記の精神科病院にたどり着いたのですけれど、単純計算でも12時間くらいは中学生が流血しながら裸足でさまよっていたわけです。こんなの、今の時代なら間違いなく、即一時保護されるべき緊急事態です。

家庭教師の親戚の件は、見方によっては親も「強引な親戚を断りきれなかった被害者」なのかもしれません。しかし、親戚関係で対応が難しかったとはいえ、こどもが完全不登校になるまでその理不尽な状況を放置し、介入しなかったのは、やはり保護者の養育態度に大きな課題があったと言わざるを得ません。今の児童福祉の視点から見ると、どう考えても色々とアウトな状況でした。

逆に、一人の民間支援者の視点で見ると、本人が不憫で不憫でたまらないけれど、アプローチが極めて難しいパターンでもあります。民間の支援は未成年の場合、基本的に保護者の同意が必須だからです。

それでも、当時の私のような子であれば、通院している精神科病院やカウンセラーと密に連携を取り、日中の安全な避難先として、日中だけでも居場所で預かるように動くと思います。

当時の私は勉強すること自体を完全に拒否していたわけではなかったので、「勉強どころではないほど心身の休息の必要性」が極めて高かったとはいえ、安心できる環境での学習面での緩やかなサポートもできたはずです。

その後、自ら別室登校をするようになるので、我ながら何の具体的な支援もない中で、よく生き延びるために「適切な自己防衛の動き」をしていたなと思います。もしかすると、病院の主治医やカウンセラーさんからの適切な助言があったのかもしれませんが。

振り返ってみても、当時もし医療機関やカウンセリングと繋がっていなければ、自分がどうなっていたか分かりません。だからこそ、家庭内だけで問題を抱え込まずに、必ず外部の信頼できる窓口や専門家と繋がることが、何よりも大切なのです。