次は、工業高校の話です。「1ヶ月ほどで完全不登校。引きこもりや精神疾患など、一番酷い時期」ですね。
一番酷い時期ゆえに、書けることが少ないかもしれません。精神疾患も中3から始まっていたので前回書いちゃいましたし。
学校の課題
事前予告通り、工業高校に関しては「学校の課題」がメインです。一つは教員、一つはクラスメイトですね。
教員は体育教員で、他の先生から見てもおかしな大人だったようです。
印象に残っているエピソードとして、「靴が盗まれたから履いている靴を見せろ」と授業中に突然入ってきたことですね。授業していた先生も意味がわからないという顔でしたが、私達生徒も意味がわからないまま履いている靴を見せました。
おそらくブランド物の靴を履いてきている子、あるいは体育教員自身の靴が無くなって調査……みたいな流れだったのでしょうけど、授業していた先生が驚いている時点で独断専行の行為だったのでしょう。
また、個人的な話だと「黙って教員の部屋に入ってくるな」と怒鳴られたことがあります。
黙っても何も、バカでかい音で音楽を流しており、何度も声をかけても返事がなく、仕方なく入っていったうえでの発言なので非常に理不尽です。
昭和ではなく平成の話なので、時代錯誤の常識を欠いた教員だったということでしょう。
もっとも、生徒指導提要が令和4年12月に改定されたことを考えると、不適切指導をする教員がまだまだ残っているということなのかもしれませんが。
そして、完全不登校のきっかけはいじめです。数学の中間テストで100点を取ったんですよね。
内容が100%中学校の復習だったし、内申点のなかった私はかなりランクを下げて入学しています。それでも内申点がない分を本番で取らなければならなかったので、受験勉強はかなりしていました。
覚えてないですけれど、どこを勉強しておけば点数が取れるというようなヒントも授業中にたくさん出されていたんだと思います。それで運よく100点取れたのですが、それを知ったクラスメイトに答案を丸めてボールにされ、教室内で投げ合いが発生しました。最終的には破られたりもしたんだったかなと思います。
それまでは特にクラスメイトに対して嫌だと思っていなかったと思うのですが、学校に関してはずっと通うのがしんどい状況だったので、これが最後のとどめになって完全不登校になりました。
この話は、中学後半から別室登校して全日制高校に合格できたという、ハッピーエンドの後の残酷な現実なので、親御さんにはあまり伝えていないことですが、今回は正直に記載しておきます。
支援者、専門家の視点としては、いじめが原因の不登校なので「いじめの重大事態」に該当します。30日以上どころか、その後一切登校しないレベルだったと思うので、今の時代だったら大問題ですね。
本人の課題
時期が曖昧なのですが、精神疾患はどんどん悪化していたんですよね。
これも中学の話だけで終わると「病院でカウンセリングされて回復していった」という感じがするのですが、ことはそう単純でもありませんでした。
電車通学だったのですが、何度も途中下車して駅のホームで嘔吐するということがありました。ただ、いじめ以降、まったく通学していないなら入って1ヶ月くらいの間に起きていたことになるんですよね。
前述した教員や、工業高校の「教員が絶対」という校風に馴染めなかったことは事実なのですが、もしかしたらいじめの後にも登校を試みて……ということも含まれているのかもしれません。
しかし、病院からも嘔吐の話やいじめの話を伝えるとドクターストップがかかったので、それなのに登校しようとするというのは不思議な気もします。
また、この頃から引きこもりにもなっていきます。さらに、リストカットやオーバードーズといった自傷行為もエスカレートしていきます。
中学3年生のときにもしていたような気もするのですが、正直この辺りの「いつから」というのは記憶が曖昧ですね。
中学3年生の不登校も中間テスト辺りがきっかけで、別室登校のはっきりした記憶は冬なので。半年くらいは完全不登校だったことになり、ここでの記憶と高校以降の記憶が混じっているかなと思います。
支援者、専門家の視点としては、「学校なんかに行っている場合じゃない」という状態ですね。
今だったら入院という形を取っていた可能性も十分あると思うのですが、当時は親も自分も入院に偏見を持っていました。そもそも、入院して逆に悪化したという事例も知っていたので。
専門家になって……というか、実際に精神科病院を訪問する機会ができて、出入り口は厳重になっているけれど、中は普通の病院と同じ、見方によっては長期入院も多いから患者間の仲が良かったり、治療のための作業療法室があったりもして、入院に対する偏見はなくなりました。
家庭の課題
基本的には今までと変わらず……という感じでしょうか。ただ、「身体的虐待」に関しては力関係が逆転したので行われることはなくなりました。
逆に私からの家庭内暴力は増えていたと思います。これに関しては、当時の私の視点からすれば「心理的虐待」は続いていたから、それに対する報復だったという感覚でした。
高校での不登校に関しても、決して理解があったわけではなかったと記憶しています。良くも悪くも担任は粘り強く学校復帰できるように働きかけてくれていましたし、親も「せっかく入学できたのに……」というようなことは言っていたと思います。
自分自身でも、高校の場合は入学金や授業料、教材費など諸々のお金がかかっていることもわかっていたので、それに対する申し訳なさや苦しみもありました。
支援者、専門家の視点としては、やはり児童養護施設か親の援助による一人暮らしかを提案するところでしょうか。実際、病院からは一人暮らしを提案されていたように思います。
我が家は金銭的には困窮していなかったので、主治医は「親として責任を持って、お金だけは出しなさい」というような考え方をしていたように記憶しています。当時は「児童虐待防止法」すらなかったので、高校生の保護というのは珍しかったと思いますし、「家庭環境による精神疾患なのだから、家庭環境を変えるための支出は親の責任だ」という考えだったようです。
逆に今の時代だと、金銭的には問題なくても未成年の一人暮らしは難しく、自立援助ホームなどを利用することになりそうですが。
当時の心境
ストレートに言えば「死にたい」ですね。厳密に言えば「消えたい」のほうが正しいかもしれません。リストカットやオーバードーズのことは書きましたが、それで死ねるとは思っていませんでした。
親を「殺したい」という気持ちもありましたが、あんな奴らを殺して自分が犯罪者になるのはおかしいとも思っていました。親に「死んでほしい」という気持ちもありましたが、親が死んでも傷つけられた心は回復しないということも理解できてしまっていたので、自分の存在が消滅するのが一番だと思っていました。
不登校の話で時々出てくる「産んでくれなんて頼んでない」とか「産んだからには責任を取れ」というのは、本当に切実な思いです。これは要するに「自分なんて存在しなければ良かった」ということです。
ただ、私のように幼少期から虐待されていたという子じゃなくても、言うこともあるでしょう。
私自身はあまり「学校の課題」はないタイプでしたが、その子の場合は「学校の課題」が大きすぎ、「消えたい」という思いからその言葉が出たのかもしれません。また、「発達障害」などの特性による生きづらさから出たのかもしれません。
言われた親御さんとしては胸が張り裂けるほど辛い言葉だと思いますが、それだけこどもが追い詰められているサインなのだということも知っておいていただければと思います。
当時の自分への支援
家庭の課題のところに書いてしまいましたが、やはり親元から離れることが一番でしょう。とはいえ、私の場合は「共依存」状態でそれも難しかったのですが。
児童相談所や社会福祉協議会(社協)の力を借りて自立援助ホームの利用を検討するとか、親がお金を出して一人暮らしさせるにしても、サポートしてくれる団体を一緒に探すでしょう。
男子であれば、私自身もサポートに入ると思います。実はホームヘルパーの資格も持っているので、家事援助も行うことが可能ですし。
家庭教師や通信制高校のサポート校でスタッフをしていたこともあるから学習支援もできるし、自分も病気の経験がある精神保健福祉士だから精神疾患への理解も知識もありますし、結構色々と多角的なサポートができるはずです。
ティーンズ・プレイスも小5から19歳までと広い範囲を対象にしているのですが、もしかしたら義務教育以降の子のほうが、私にできることは多いかもしれません。
もっとも、義務教育を終えた年齢になってから新たな支援機関と出会うことは非常に難しいので、結局は小中学生の時点で繋がっていないとサポートに結びつきにくく、やっぱり義務教育期間からの継続的な支援が大切なのですが。