愛情は捧ぐ相手がいてこそのもの

こんばんは、鷹れんです(*´`)
突然ですが、最近私は「ハグ」が大好きです。
ハグというか、ひとに愛情を向けることが、幸せでしょうがありません。
今日は、そんなお話です。

人を愛することで、自分を愛せない自分を許していた

「自分を愛せなければ他人なんて愛せないよ」
いつかどこかでそんな言葉を耳にしました。

しかし私は、そうは思いません。かつての私が、そうではなかったから。ひょっとしたら今も「自分を愛せないまま他人を愛している」状況なのかもしれません。

私は「愛する」ということは、「その対象のために行動を起こす」ことだと思っています。
そして今の私には「愛してる」なんて言葉をつかえるほどに大切な人たちがいます。

もともと人のためになることがしたい・人に奉仕したいという欲求が大きいのか、自分が多少忙しい場面だとしても、誰かから「ちょっと頼まれてくれない?」と言われたら二つ返事で引き受けることが多いです。
以前と違って今ではちゃんと頭の中で計算してから引き受けるようにはしていますが、「なるべく断りたくない」「なるべく困らせたくない」という考えは変わっていません。
たとえ頼まれていないことであっても、誰かが困りそうなものがあったら自分の手の届く範囲で解決しておくし、誰かが助かりそうなものがあったら自分の手の届く範囲でやっておきます。帰るときに靴を履きやすい位置に揃えておくとか、足りないものを補充しておいたりとか、片付けたりとか。誰にも気づかれないような小さなものがほとんどで、たまに「褒められたくないの?」なんて訊かれることがあるのですが、(もちろん褒められたら嬉しいけれど)誰かに見られたくてやっているわけではないので、そういう欲求が生まれることはありません。

それだけ他人のために動けるわりに、私は長らく自分のことを愛することができませんでした。今は多少できるようになったと思っているけれど、それでも苦手にかわりはありません。
疲れたなぁと思っても、誰かが疲れてそうにしていたら笑顔であたたかい飲み物を差し出して、自分の気持ちには蓋をする・・・みたいな感じです。

「自分のための努力」は今も昔もけっこうな苦手分野です。
自分のために日記をつけたり、自分のためにダイエットしたり、自分のために筋トレしたりといったものがめっぽう続かないのです。人のためのものは多少苦しくても続けられるのに、変な話ですね。

昔はその「自分自身を愛せない自分」を責めていました。まさに自己嫌悪ってやつです。
自分のことすら愛せないやつに他人を愛するなんてできるものか。
そう自分を責めて、でも自分を愛する方法なんて分からなくて、そもそもあんなちいさな(と当時は考えていた)いじめ程度で傷ついているような弱虫を愛したいとも思えませんでした。

自分を愛せなくても、人のことは愛せるよ。

そんなメッセージを素直に受け止められるようになったのは、きっとつい最近のことだと思います。

自分のことを愛していていないとしても、私が大切に思っている人への愛情は嘘ではありません。その人が困っていたら自分にできるかぎりのことはしたいし、そのときの「できること」を増やすために頑張れることがあるなら頑張りたいです。

自分を愛せないあまりに自分自身を傷つけてしまったり、その不安定なこころを誰かにぶつけて他人のせいにしてしまったりするのは悲しいことだと思うけれど、「自分を愛する」という話と「他人を愛する」という話はまた別物なんじゃないでしょうか。

過去の私にとって「人を愛する(=人のために行動する)」ということは、自分を許す唯一の手段でした。
役立たずの烙印を押されるのが怖くて、自分で自分をりつけなくては堕落してしまうような気がして、必死に動き続けていました。
心に蓋をしすぎてやっとこさあけた頃には中身がこんがらがりすぎてよく分からなくなっていたし、一時期は自分の興味や趣味趣向さえも分からなくなっていました。
今自分がなにを感じ、なにをしたいと思っているのかがまったくもって見えなかったんです。

そんな私の唯一の楽しみが「人の役に立つ」ということでした。
私の両親は「ありがとう」を一切使わない人でした。そしてほんの少しでも迷惑をかけてしまうととたんに責めてくる人でした。
それが普通だと思っていたから当時はそんなに苦ではなくて、むしろこれでネガティブな感情が生まれる自分の心がおかしいんだと思っていました。

しかしそんな私がしたことに対して「ありがとう」と言う人が現れたのです。
私にとっては、カルチャーショックのようなものでした。別にその言葉自体を知らなったわけではないし私自身はよく「ありがとう」を言う子だったのだけれど、私がそれを言われたときはなにか特別なことをしたわけではなく、ちょっとしたこと……落とし物を拾ったとか改札でぶつかりかけた時に譲ったとかその程度のことでした。それだけで、笑顔で「ありがとう」だなんて。
その人が特別なんだと当時は感じたのだけれど、それからも何人もそういう人が現れて、そして私は自分の心が満たされていくことに気が付きました。

それから、私は積極的に「人のためになるであろうこと」をやるようになりました。
最初は褒められたい気持ちが大きかったけれど、それは気づかないうちに消えていて、私の中に残ったのは「人を愛したい」という気持ちだけでした。
たとえ相手から感謝されなくても、私の行動に誰も気が付かなくても、そんなことはもうどうでもよかったんです。
「人のために行動する」ということがこんなにあたたかいものだなんて、知らなった。あぁもったいない! それだけでした。

私の中では、「人を愛する」ということが「自分を愛する」ということでもあります。
人の悩みに寄り添いかける言葉は、そのほとんどが自分に向けているメッセージでもあって。
大丈夫だよ。がんばらなくてもいいんだよ。がんばりたいならがんばってみな。いつでも帰ってくる場所はあるからね。
人から「ありがとう」と言われるたび、私の心には「こちらこそありがとう」という言葉が浮かびます。

人を愛することで、自分を愛する。
私にとっては「人を愛することができなければ自分を愛することなんてできない」という言葉のほうが腑に落ちます。

対象がだれか他人であろうと、自分であろうと、ものであろうと、なんであろうと、「愛する」というのはステキなことです。
時にはそれが押しつけになってしまうこともあるけれど、そういうのは気づいたときに修正していけばいいのだと思います。

さて今日は、なにを愛して生きていこうか。

鷹れん

 

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ティーンズプレイスを見ていただき、ありがとうございます。 管理人の鷹れんです(*´`) 小学校2年生、はじめていじめを受けました。 中学生になってからもいじめられて、はじめて不登校になりました。 不登校になってから、家...

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全1件のコメント

  1. 月詠 2016/10/10 16:45

    鷹れんさん、私は中学一年生なんですが、、、いじめってなんでするんですか?
    私って、嫌われてるんでしょうか?誰からも好かれてないのでしょうか?
    今日、父にこう言われました、、、邪魔だ!どけ!クズ!私はもうどうすればいいかわかりません。私がいけないのでしょうか?なぜ、私はこんなに嫌われるのでしょうか?
    幸せって一体なんなのでしょうか?私はこの世界に必要なのでしょうか?
    学校に行くと、死ね!、消えろ!、汚れる!、ウザい!などたくさんの悪口を言われます。蹴られて、殴られ、水をかけられ、アザを作って帰る、それでも父は、私の事を、
    どじ!と言って叩きます。お母さんは、離婚しました。それからでしょうか?私がこんな目にあい始めたのは、、、いつからなんだろう?前まで楽しく感じていた学校がいつの間にか、地獄へと変わっていました。私は一体どうすればいいですか?
    コメントじゃなくてすいません。もしよければ答えてください。よろしくお願いします。

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