どれだけ人との繋がりによって傷ついても、その傷を癒すのはやっぱり人なのです

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こんにちは、鷹れんです。
私はこれまで、たくさんのことに傷ついてきました。

いじめられたとき。不登校になったとき。転学を余儀なくされたとき。ずっと支えだった友達がいじめの黒幕だったと知ったとき。親から捨てられたとき。

つい先日親へ気持ちを伝えたのですが、そのときも親を傷つけるだけ自分の心も傷つきました
感受性が強いのかなんなのか分かりませんが、昔から誰かを傷つけると自分も傷ついてしまうんです。相手から仕返しをされたとかどうかではなく。まるで持ち手に刃のついたナイフを振り回しているみたいに、傷だらけになってしまいます
たいていそういう時は傷つけたくて傷つけているのではなく、「気丈な態度でいないと押しつぶされそうなとき」とか「それ以外の方法での伝え方がわからないとき」とか、どうしようもないシーンが多いです。でも結局傷つけるのを選んでいるのには変わりないから、心の中は自己嫌悪でいっぱい。傷つけていることに傷つき、傷ついている自分に気づくと「なんでお前が被害者面してんだ」とますます自分を追いつめてしまいます

オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラーが創始した心理学の理論「アドラー心理学」には、こんな言葉があります。

「すべての悩みは人間関係の悩みである」

これを聞いたとき思わず納得してしまいました。
私は心理学に関しては明るくないのでここでは割愛しますが、たしかに悩みの多くは人間関係に通じているような気もします。
いじめや不登校は当たり前ですが、たとえば「勉強ができない」だって比べる対象があって初めて成り立つものではないでしょうか。将来の夢についてだって、自分しかいなければ悩まずに進めるはずです。家族や守るべき存在、先生、同期、さまざまな人間関係に囲まれているからこそ、私たちは「やりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」の兼ね合いをつけなければならないのです。

もしかすると、人間関係なんていう煩わしいものがなければ悩みは生まれないのかもしれません。人間関係に悩めるほど平和でなければ、私たちはもっと必死に生きようとできるのかもしれません。自分ひとりで生きることになったなら、これまで苦しんできたほとんどのことが、消えてなくなるのかもしれません。

しかし、もしそうだとしても私は「人間関係のない世界」を生きたいとは思いません

人との繋がりで悩み、傷つき、苦しんできた分だけ、人との繋がりによって喜び、成長し、うれし涙を流してこれたからです。
私は今19歳だけれど、これまでの19年間を振り返ったとき、残っている記憶のほとんどは苦いものです。失敗したことや後悔しているものはまるで今もそこにいるかのように鮮明に思い出せるのに、うれしかったことはなんだか夢のようで、今にも無くなってしまいそうです。儚くて淡くて、もしかしたら全部夢だったんじゃないかと思ってしまうくらいです。

私はこれまで、たくさんの言葉で傷ついてきました。
親から「お前の親なんかやめてやる」と言われたとき。友達だと思っていた子から「みんなお前のこと嫌ってる」と言われたとき。クラスメートから「学校に来なければいいのに」と言われたとき。先生から「いじめられる方も悪いよな」と言われたとき。
今でも時折、当時の感情が流れ込んでくることがあります。つらい、苦しい、耐えられない、もう無理、誰か助けて、頼っちゃいけない、どうしたらいいかわかんない、もう生きるのをやめてしまいたい――。15歳そこそこの少女が(といってもまだ4年前くらいですが。笑)よく耐えられたなと自分で感心するほどドギツイ感情たちです。

当時は、ひとりで生きていくのだと思っていました。
私を愛してくれる人なんてただの一人も存在しないのだと思っていました。
私が死んでも、突然いなくなっても、病気になっても、誰も心配も看病もしてくれないのだと思っていました。

でも、そうじゃなかったんです。
もしものときはウチにおいでと言ってくれる人がいて。いつでも話聴くよと言ってくれる人がいて。抱きしめてくれる人がいて。私を認めて、愛情たっぷりに接してくれる人たちがいます。

まだ頼るのは下手くそだし甘えるなんて出来やしないし、いざキツくなっても「相手も忙しいだろうし」「あの人も悩んでいるみたいだったし」「せっかくの休日に申し訳ない」などとあれこれ考えて理性が行動にストップをかけてしまいます。これまで何度、LINEのメッセージを送らずに消してきたことか。何通のメールを破棄したか。何通の手紙を破り捨てたか。どれほどの「助けて」という言葉を飲み込んだか。

ところが人には適材適所というものがあるようで、助けを求められない私の代わりに「私(鷹れん)がキツイ状況であろうことを察してくれる人」が現れました。その人は他人の感情の機微などにとても敏感な人で、なにかのセンサーが働くようです。私のセンサーはとうの昔に壊れてしまっているので、これは大変ありがたい。たまに私自身が気づいていないような細かいところまで読み取るから不思議ですね。すこし疲れたくらいじゃ気づけない人間ですから、すごーく助かっています。有難い。

1+1は2にも3にも10にもなるかもよ

別に私ばかりが助けられているわけではなくて、どうやらその人のことをカバーしていることもあるようです。相手いわく、「理論的に考えてくれるから相談しやすい」とのことでした。たとえば「死にたい」と相談したときに「そんなのダメだよ!死んじゃダメ!生きなきゃ!!」みたいなメッセージはいくら自分のことを想ってのものでもしんどいらしくて、そこで私は「ただ気持ちを受け止めて」「共感しすぎずに」「でも離れているわけでもなく」ちょうどいい距離感をとっているようなのです。
自分ではまったく意識していませんが、多分感情と理論のバランスがいいんでしょうね。論理的に考えることもできるし、感情ベースで考えることもできる。きっと勉強は理系が好きで趣味は文系が好きだったから、そこで知らず知らずのうちにバランスよく培われてきたのだと思います。

対して彼女は、ザ・感情論タイプ。「死んじゃダメだよ!」なんてことは言いませんが、基本的に主観でものごとを考えます。どちらがいいとか悪いとかではなく、私はそこまで振り切って考えることができないので、話しているとお互いいい発見があるのです。

私と彼女の関係に限らず、きっとどの人も、人との繋がりによって、補い合って、支えあっているのではないでしょうか
考え方や価値観、出生、環境、響く言葉……どれも人によって違います。共通点があったとしても、全部まったく一緒ということは無いはずです。
「理論的に考えれなきゃだめ」とか「どっちかに偏っていてはだめ」とか「家族関係に問題のあった子はこうだからだめ」とか、そうやってすべてを何かの基準によってマルとバツに仕分けていくのは、きっと違うと思うのです。
理論的に組み立てていく人もいる。感情ベースで直観に従っていく人もいる。ふたつの間でいい塩梅で考えていく人もいる。

大切なのは「よりよい考え方はどれか」なんて考えることではなくて、「自分と違う考え方も尊重すること」「みんな自分と同じだと思わないこと」です。
この二つ、至極当然のような気もしますが意外と難しいですよ。

自分と違う考え方も尊重すること

できていますか?
意固地になってまわりを否定したり、耳を塞いだりしてしまっていませんか?

軸を持つというのはとてもステキなことです。考え方に一本筋を通すだけで、その人はとてもかっこよく見えます。しかしその軸が金属のようにかたいものとなってしまっては、違う考え方や価値観と出会ったときに跳ね返してしまいます。もしかすると相手の脆い心をパリンと割ってしまうかもしれません。どんな人でも心の奥底はマシュマロみたいに柔らかくてガラスみたいに繊細です。
だからこそ私は、ゴムのような軸を持っていたいです。相手がどんな考え方・価値観を持っていようと、いきなり跳ね返すのではなく一旦受け止められるように。

もちろん私にも「許せない領域」「不快なもの」「受け入れられないこと」はあるので、相手の価値観を受け入れるかどうかは別問題です。しかしそういう時だって、「あなたは間違っている!私の考え方のほうが正しい!!」と勝負をする必要はありません。ただ「あなたはそうなのね。私はこうだよ」と事実として知っておくだけです。「いいな」と思ったものは少しずつでも取り込んでいけばいいし、「違うな」と思ったものはそれが存在するということだけ心に留めてあとは違う個人として生きてゆく。それでいいのだと思います。

別にすべての人が同じ目標に向かって進む必要も、すべての人が同じものを好きになる必要もないのですから。みんな違ってみんないい、簡単なことなのにこれがすごく難しいのですよね。

みんな自分と同じだと思わないこと

以前、クラスメートの女の子に言われた言葉が今でも忘れられません。
その子は私の誕生日に髪飾りのシュシュをプレゼントしてくれました。とても嬉しかったし「ありがとう」と伝えたけれど残念ながら私はそういった可愛らしいものがあまり得意ではなくて(正確に言えば「女の子らしく振舞う」ことを避けたくて)、髪があまり長くなかったのもあってそのシュシュをつけることは出来ませんでした。
それでも自室の宝物入れに大切にしまっていたのですが、数日たったある日、その子が近づいてきて

「私があげたシュシュ、どうしてつけてくれないの?! 女の子みんなシュシュとかあげると喜んでくれるのに! 鷹れんちゃんなんて嫌い!!」

と言ったのです。たしか、小学校五年生くらいのときでした。

年齢もあったかもしれません。まだ「女の子はこう、男の子はこう」とか、個人としてよりもみんなで活動することが多かったので、その子の中では「女の子=シュシュが好き」という方程式が成立していたのでしょう。

そうして私はひとりお友達をなくしてしまったわけですが、こういうことって成長してからも珍しくないのではないでしょうか。

「私が楽しいんだから相手も楽しいはず!!」と自分の話ばかりをしてしまったりとか。
「男の子は青色が好きなんだからこれなら喜んでくれる!」となにかのカテゴリー(年代、性別、出生、その他諸々……)によって分類してしまったりとか。
「自分がこれだけ頑張ったんだから相手も分かってくれる!!」と独りよがりな考え方をしてしまったりとか。

私もたまにしてしまいます。
しかし、先ほど書いたように人によって価値観や考え方、好みは千差万別。色の好みでさえ10人10色です。食べ物だって、トマトが大嫌いな人もいれば大好きな人もいますよね。でもそこで「自分はトマトが大好きだから相手も喜んでくれるに違いない!」とトマトたっぷりの料理を作ってしまっては、相手がトマトを大嫌いだった場合にはなんともいたたまれない状況になってしまいます。ちなみに私はトマトが嫌いです。

大切なのは、「想像すること」と「相手の声を聴くこと」

きっとどんな人でも、たとえマザー・テレサのような愛にあふれた人であっても、人生の中で一度も上記のようなことをしない、ということはないと思います。どんな人も間違いながら、失敗しながら学んでいくのです

では、なにが大切なのか。私は「想像すること」「相手の声を聴くこと」の二つが大切だと考えています。
たとえば私が誰かにプレゼントしようと思ったとき、まずは想像します。
そういえば以前写真立てがほしいと言っていたな。食べるのが好きだから食べ放題とかでパーティするのもいいかな? あ、でも大げさに祝われると遠慮しちゃう人だから、手作り料理とかを振舞って内輪で祝うほうが楽しめるかな。以前手紙を喜んでくれたから、今度はみんなで色紙を用意するのはどうだろう?
……と、これは私が実際にある人のことを想像したのですが(笑)。ここで私は「想像すること」によって、お手製料理を振舞う内輪のお祝いと写真立てのプレゼントを選びました。

日頃十分にコミュニケーションがとれていて相手の好みなどがある程度把握できているような関係なら、それでいいと思います。でも実際には、相手の好きなものや嫌いなものが分からないこともありますよね。
そういうときにはいくら想像力を働かせても正直意味がありません。考えるヒントが少なすぎるからです。ではどうするか。素直に聞けばいいんです。

「誕生日プレゼントはなにがほしい?」
「盛大に祝うのとこじんまりだったらどっちが好き?」
「なにか苦手な食べ物とかある?」
「人の手作りとか平気なタイプ?」

「でもサプライズがいいもん!」と言う人もいるかもしれません。しかし、相手の誕生日は今回が一度きりではないのです。来年も再来年も、きっとやってきます。一緒に過ごすことができます。誕生日じゃなくても、進学や就職等、相手を祝うチャンスは一年のうちに何回もあります。もはや「日頃のお祝い」と言ってなんでもない日に突然渡してしまってもいいのです。相手がサプライズ嫌いな人じゃなければきっと喜んでくれるでしょう。

私は人の手作り料理は大丈夫(むしろ大好き)だし盛大なお祝いも内輪的なお祝いも大好きです。ただ苦手な食べ物が若干多いので(基本生野菜、苦いもの、辛いものはNG)、食べ物に関しては事前に好みをきいてからにしてもらえると助かります(生意気?笑)。
世の中には、手作りがダメ(好きじゃない)という人は当たり前に存在します。アレルギーによって食べられるものがすごく限られている人もいます(世の中には小麦粉や卵、水など、多くの料理に入っている食べ物がダメという人もいるのです)。盛大なお祝いはかえって気を使って疲れてしまう人もいます。サプライズを喜ばない人だっています。

サプライズをしたいのはあくまでやる側であって、やられる側(本来の主役)がどう感じるかはわからないのです。主役の座を奪ってはいけません。

誕生日に限らず、人付き合いの中で「想像すること」「話を聴くこと」というのはとても重要なことです。この二つを放棄してしまっては、私たちの間には数えきれないほどの「すれ違い」が生まれてしまいます。
もちろん、どれだけ想像しても、どれだけ相手の話を聴こうとしてもすれ違いはゼロにはならないでしょう。相変わらず私たちは人を傷つけ人に傷つけられ生きていくことになります。でもそれと同じかそれ以上に私たちはお互い支えあっています。

たとえ想像が足りなかったとしても、話を聴ききれなかったとしても、本当はサプライズが苦手だったとしても、「誰かが自分のために一生懸命行動してくれる」というのは想像以上にうれしいものです。別にプレゼントがまったく好みじゃなかったとしても(笑)、このプレゼントを選ぶためにかかったであろう手間や時間を思うだけで、その人が自分のためだけに割いてくれた時間があるというだけで、それだけで、泣けてしまうほど嬉しいのです。

これから先もきっと私は傷つきます。人間関係によって悩みます。苦しみます。もう生きるのをやめてしまいたいと、泣けなくなってしまう日がまた来るのかもしれません。
でもきっとこれから先、その傷よりずっと多くの幸せな出会いに恵まれます。そう信じています(信じなきゃやってられません!笑)。

だからあなたも。
いっしょに、歩いていきませんか?

鷹れん

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